魏志倭人伝


魏志倭人傳の資料的考察

 「魏志倭人傳」の正式名は、「三国志」の中の「魏書巻三十」の中の東夷傳のうち倭人傳をさすものです。
 編者は西晋の陳寿で、280年~290年頃に書かれたとされています。「魏書」30巻、「呉書」20巻、「蜀書」15巻をまとめて「三国志」と呼ばれているものです。

 わが国では未だ文字が使われていない、古代の日本と中国の交流に関する記録の中でも、魏と邪馬壹國の役人の往来が約10年間に5回あったという、例を見ない濃密なものであったことが記載されています。
 この書では、魏の出先機関である帯方郡の役人が邪馬壹國に来て、距離、方角を測量し、見聞した地形、植物、風俗を記録したものを基に書かれたと推察されます。これは他の記録書と違う特異な点です。

 古代の日本を知るためには、この書を軽視することはできません。
 現在知られている資料の中では第一級の歴史資料です。

 現在見ることができる本は、転写を繰り返された写本を基に木版を彫ったものと考えられます。転写には誤字、脱字が避けられません。記載内容を分析する場合はこの点に注意が必要です。現在使われていない漢字もあります。正しい解釈のための裏付けが無い場合もあります。その場合は推理することも必要です。ただし、推理には独断と偏見が含まれることを免れません。

 この「倭人傳」を読むと陳寿の原文に、後日挿入されたとしか考えられない部分があります。また、誤字、脱字が多いように思います。挿入されたと考えられる文の基は魚豢の「魏略」と推理します。魚豢は陳寿とほぼ同年代の人と考えられています。陳寿は「魏略」によって記述したと考える人が有りますが、私は違うと考えます。陳寿にも自尊心があったと考えます。
 「魏書」の「倭人傳」を記述した陳寿は晋の著作郎の職にあり、宮廷の公式記録を閲覧して歴史書を記述した人と考えられています。始めは私家本として「魏書」「蜀書」「呉書」の順に書いたものを、陳寿の死後に天子の命により写本が作られ、これが「三國志」として正規の歴史書とされたという。
 一方の魚豢はその実態が明らかでは無い人です。陳寿の「三國志」は客観的で簡潔な記述と評価する人もいるようです。
 私の考えでは「魏略」は物語です。残存する「魏略」は断片的で非常に少ないことから、全体を推理することは無理ですが、少ない部分から判断すると「物語」だったと考えざるを得ません。
 他にも文章が具体性に欠けると思われる部分があります。具体性に欠ける部分は歴史記録として分析の対象としないことが妥当と考えます。

 「三國志」は中国の官吏を対象とした歴史教育の教科書として用いられたので、その写本は多数作られたと考えられます。その中心は中国の国内を記述した部分であったと思います。「倭人傳」は教育、研修には使われず、写本は少なかったと思います。一部の知識愛好家のために作られた写本に陳寿の原文に無いにもかかわらず、「魏略」を「倭人傳」の遺漏部分と誤解した人が後日「魏略」の断片を「倭人傳」に挿入したと考えます。
 後日、版木に彫り出版された時に良質な写本が無く、残存していた粗悪な写本を基にしたと考えます。
 百衲本はこの粗悪な写本を基にしていると考えます。
 私が後日挿入されたと考える部分は以下の四個所があります。
 一は、男子無大小皆鯨面文身から尊卑有差までです。文が冗長であること、後に続く計其道里當在會稽東治之東までが書き出しから続く地理に関する文であるのに、途中に風俗に関する文が割り込んでいるからです。
 二は、所有無與儋耳朱崖同です。「倭人伝」の前に儋耳・朱崖の詳細な記事が無いにもかかわらずこの文があることは不自然です。
 三は、其俗舉事行來有所云爲輙灼骨.而卜以占吉凶先告所卜.其辭如令龜法.視火圻占兆.です。誰が骨を焼くのか不明です。誰でもできることとは考えられません。事実を述べているように感じられないのです。  四は、女王國東渡海千餘里から周旋可五千餘里までです。基の文は地理に関する部分、風俗に関する部分、魏と女王の交流に関する部分が続いていると考えますが、風俗の部分の後に地理に関する部分に相当する文が割り込んでいます。その表現は曖昧で具体性に欠けます。書き出しの文とは異質なものを感じます。
 これらの文は物語にふさわしい表現で、歴史の記録文にはふさわしくないものと考えます。
 この他に誤字と脱字がありますが、誤字と判断できるものは訂正します。脱字は別の写本が見つからないと訂正できません。


「魏志倭人伝」の訳文

岩波文庫「魏志倭人伝」石原道博編訳に掲載された百衲本の影印を基にしました。

訳文

倭人(ゐじん)は魏国帯方郡(沙里院付近)の東南で大海の中に住んでいる。山島によりそって国むらをつくっている。昔は百余りの国があり、漢の時代に皇帝に拝謁した者があった。今は使者や通訳が往来するところ三十国である。

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

帯方郡から倭(ゐ)にゆくには海岸をめぐり船旅で韓国をへて南へ行ったり東へ行ったりして、その北岸の狗邪韓国(くざかん国・加耶(かや)=釜山の近く)に着くのに七千里余りである。
始めて一つの海を渡り千里余りでツマ国(対馬)につく。そこの大官をヒクといい副をヒヌモリという。住むところは離れ島で四方が四百里余りばかりである。土地は山がけわしく深い林が多い。道路はとりや鹿のみちのようである。千戸余りあり、良い田は無く海産物を食い自活している。船に乗り南や北に行き穀物を買い入れている。
また、名を瀚海(かんかい)という海を南へ千里余り渡り、イキ国(壱岐)につく。官をまたヒクといい、副をヒヌモリという。四方が三百里ばかりである。竹や木が茂った林が多く、三千ばかりの家がある。田地がすこしあるが、田を耕してもなお食に不足のようである。また南や北に行き穀物を買い入れている。
また、一つの海を千里余り渡り、マロ国(呼子・名護屋付近)につく。四千戸余りあり、山と海に沿って居住している。草木が生い茂り歩いていて前を行く人が見えない。好んで魚やあわびを捕え、水の深い淺いに関係なく、みな潜って取る。
東南へ五百里の陸の旅でイツ国(小城市付近)に着く。官をニキといい、副をエモク・ヒゴクという。一万戸余りあり、代々王がいて、みな女王国に統属している。帯方郡の使者が往来するとき常に滞在する場所である。
東へ百里でヌ国(佐賀市北部付近)に着く。官をジマクといい、副をヒヌモリという。二万戸余りある。
東へ行くとフミ国(吉野ヶ里付近)に百里で着く。官をタモといい、副をヒヌモリという。千家余りある。
南へ船旅により二十日でトマ国(天草下島)に着く。官をミミといい、副をミミナリという。五万戸余りばかりである。
南へ船旅に十日陸の旅に一月で、女王が都としている場所のザマイ国(球磨盆地=人吉盆地)に着く。官にイキマがあり、次をミマショといい、次をミマワキといい、次をヌケタという。七万戸余りばかりである。
女王国から北はその戸数や道の距離をあらまし記載することができるが、そのほかの傍らの国は遠くへだてられているので詳しく知ることが出来ない。

次にシマ国があり、次にジホキ国があり、次にイザ国があり、次にツキ国があり、次にミヌ国があり、次にカコツ国があり、次にフヲ国があり、次にシャヌ国があり、次にツソ国があり、次にソヌ国があり、次にヲオ国があり、次にゲヌソヌ国があり、次にキ国があり、次にヰゴ国があり、次にキヌ国があり、次にザマ国があり、次にクジ国があり、次にハリ国があり、次にキヰ国があり、次にウヌ国があり、次にヌ国がある。ここが女王国の境界がつきるところである。

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

その南にクヌ国があり、男子を王とする。その官にクコチヒクがある。女王に属さない。
帯方郡から女王国に一万二千里余りで着く。

男子は高位の者も貧民も区別無くみな顔や体に入れ墨をする。昔から、その使者が中国にゆくとみな自分を大夫(上級の役人)と称する。夏の天子だった少康の子が会稽に封じられたとき、髪を切り体に入れ墨して、蛟龍(鱗のある龍)の害をのがれた。今、倭(ゐ)の水人は好んで潜り魚やはまぐりを捕える。体に入れ墨をして、やはり大魚やみずとりをはらったが、後にすこしずつ飾りとした。諸国の入れ墨はおのおの異り、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分が高い低いでも差がある。

(注:この青字の文は前後の文と異質なものを感じます。後日魏略等の文が挿入されたものと推理します。)

その道の距離をはかるとまさに会稽郡の役所(紹興市付近)の東にあたる。
その風習はみだれてない。男子はみな髪を露出して木綿で頭をしばり、その衣は横へりをただ共に結びつなげて、ほぼ縫わない。婦人は髪の毛を自然のままにし曲げて結び、衣は一重の着物のように作る。其の中央に穴をあけ、この衣に頭をとおす。
いね、カラムシを植え、桑を植え蚕を飼い、糸を紡ぎ、カラムシ布、絹布、綿布をつくる。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない。
兵は矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短く上は長い。竹の矢は鉄のやじり、あるいは骨のやじりである。

有るものと無いものは儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい・共に海南島の一部地名)と同じである。

(注:この文は前後の文と異質なものを感じます。後日挿入されたものと推理します。)

倭(ゐ)の土地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べ、みな裸足であるく。部屋に区分された家があり、父母兄弟は違う部屋に寝起きする。
赤い顔料をその体に塗るのは、中国で粉をもちいるようなものである。
食飲に竹製や木製のたかつきを使用して手で食べる。
人が死ぬと棺はあるが棺の外囲いが無く、土を高く盛り上げて塚をつくる。死の始め十日あまり喪にとどまる。そのとき肉を食わず、喪主は声をあげて泣き、他人は歌舞飲酒をする。埋葬がすむと、家族がこぞって水の中にゆき、からだを洗い、中国でねりぎぬを着て水浴するごとくである。
海を渡り中国に往来するには、いつも使者の一人は頭髪をとかさず、しらみを取り除かず、衣服はあかによごれ、肉を食わず婦人を近づけず、喪に服するようである。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が吉善であれば、そろってその生口(せいこう・捕虜)や財物を報いる。もし疾病や暴害に逢うことがあれば、すぐにこれを殺そうとする。その持衰がつつしまないからという。
真珠や青玉が生産され、山には丹砂(朱色の鉱物)がある。
木にはウメ、スモモ、クスの木、ビロウ(檳榔・蒲葵)、松、モチノキ、ヤマグワ、フウの木(イタヤカエデ)がある。竹にはシノダケ、ヤダケ、桃枝竹(皮の赤いタケ)がある。ショウガ、ミカン、サンショウ、ミョウガがあるが、これを滋味とすることを知らない。サル、黒キジがいる。

そこの風習は、事を始めたり、旅行するときには、もっぱら骨焼きをするとのことである。そして亀の甲に現れた裂け目で吉凶を判断し、まず占ったところを告げる。そのことばは令亀の法のようであり、焼いた裂け目を詳しく調べきざしをうらなう。

(注:この文は前後の文と異質なものを感じます。後日挿入されたものと推理します。)

そこの寄り合いでは座るところに父子や男女のくべつがなく、人はうまれつき酒を好む。地位の高い人がうやまう場合を見るとただ拍手するだけで、ひざまずいて拝むことに代えている。

そこの人の寿命をしらべるとあるいは百年、あるいは八、九十年である。
そこの風習は国の地位の高い人はみな四、五人の妻で、貧民はあるいは二、三人の妻である。婦人は男女関係にみだらでなく、やきもちをやかず、ぬすみせず、訴え事は少ない。
法を犯すことが軽い者はその妻子をとりあげ、重い者はその一家および一族を滅ぼす。
身分が高い低いでそれぞれ序列のちがいがあり、家来として仕えることをたすけ年貢をあつめるに十分である。

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

食料を蓄える建物があり、国々に市がある。物々交換の交易を高官にみはらせる。
女王国より北に一人の王の士卒を特別に置き取り締まり、諸国はこれをおそれはばかる。士卒は常にイツ国に役所を置き、国中に地方監察官のような者がいる。
王が遣わす使者が洛陽、帯方郡、諸韓国にゆくとき、および帯方郡の使者が倭国にゆくときに、みな船着き場に来て、伝送する文書や賜り物をさがしあらわにし、女王にゆきつくのに間違うことができない。
貧民は有位者と道路で行き会うと、逡巡して草の中に入り、言葉を伝え、事を説くときには、あるいはうずくまり、あるいはひざまずき、両手を地に付けてうやうやしくする。対応の声が「アイ」というのは承諾することのようである。
その国はもとは男子を王として七、八十年続いていた。倭国が乱れ、互いに攻伐すること累年に及び、そこでそろって一人の女子を立て王とした。その名はヒミヲである。邪術をつかい、よく多くの人をまどわすことができる。年令はすでに長大だが夫はない。弟があり国を治めるのを助けている。王となってから朝見する者は少い。

侍女千人をひきいてみずからやしなう。

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

ただ男子が一人いて、飲食をあてがい、言葉を伝え、居所に出入りする。宮室、物見櫓、城柵を厳かに設置して、常に人がいて武器を持って守衛している。

女王国から東に千里余りで、また国がありみな倭人種である。また、こびと国がありその南に背丈三、四尺の人が住んでいる。女王をはなれること四千里余り、また、はだか国、くろ歯国がある。また、その東南に船旅で一年ばかりで訪れる倭地に着く。遠く離れた海中の島々の上に、あるいは離れ、あるいは連なり、周囲を巡ると五千里余りばかりである。

(注:この文は前後の文と異質なものを感じます。後日挿入されたものと推理します。)

景初二年(238年)六月に倭の女王は大夫(上級の役人)ナショメなどをつかわし帯方郡にゆき、天子に朝献することをもとめた。帯方郡の太守(郡の長官)の劉夏(りゅうか)は役人をつかわし、京都(洛陽)までひきいて送らせた。
その年の十二月詔書で倭の女王にこたえた。
いわく、「親魏倭王(しんぎゐおう)ヒミヲにみことのりする。帯方郡の太守の劉夏(りゅうか)は使者をつかわし、あなたの大夫ナショメ、次使のツジグリを送り、あなたが献上した男の生口(捕虜)四人、女の生口六人、まだら模様の布二匹二丈をささげて到着した。あなたが住むところは遙かに遠いが、使者をつかわし貢ぎ物を贈ったのはあなたの忠孝です。私はあなたをふかくいつくしみ、今からあなたを親魏倭王とする。金印と紫綬(紫のくみひも)を与える。装い包み帯方郡の太守に託して授ける。あなたはそれで同じ種族の人を安んじいたわり、目上の者によく従わせるように勉めなさい。あなたの使者ナショメ、ツジグリは遠い道のりをご苦労である。今からナショメを率善中郎将(上級武官)とする。ツジゴリを率善校尉(武官)とする。
銀印と青綬(藍の組紐)を与える。目どおりしてねぎらいをあたえて帰えす。今から深紅布に龍が交差した文様錦五匹、深紅の布のちぢみ粟紋もうせん十張、あかね紅五十匹、藍色五十匹であなたの貢ぎにあたいする物でこたえる。また特にあなたに、紺色布に方形文様錦三匹、細かい斑白色文様もうせん五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、おしろい、べに各五十斤をあたえる。みな装い包みナショメ、ツジグリに託す。帰り着いたら目録どおりことごとく受け取るがよい。これをあなたの国中の人に見せて、魏国があなたをいつくしんでいることを知らしめなさい。そのためにねんごろにあなたに良い物を与えるのです」と。
正始元年(240年)に帯方郡の太守の弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉(武官)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書、印綬をささげて倭国にゆき、倭王につつしんであたえた。あわせて天子の詔をもたらし、金絵錦、もうせん、刀、鏡、品級による色彩した物を与えた。倭王は使者により天子に文書を奉り、天子の恩に答え感謝した。
その四年(244年)に倭王は、また大夫イショギ、ヤザクなど八人をつかわし、生口、倭の錦、深紅と藍の絹、綿の衣、絹布、べに、木のつかの短弓、矢を献上した。ヤザクなどはみな率善中郎將(上級武官)の印綬をさずかった。
その六年(246年)にみことのりして、倭のナショメに軍旗を帯方郡に託してあたえた。
その八年(248年)に太守の王頎(おうき)が赴任した。
倭の女王ヒミヲとクヌ国の男王ヒミクヲは初めから仲がよくない。倭はサシウヲなどをつかわし帯方郡にゆき、互いに攻撃する状況を説明した。塞曹掾史(さいそうえんし・属官)の張政(ちょうせい)などをつかわし、詔書、軍旗をもって行き、ナショメにさずけて、通告文でつげさとした。
ヒミヲが死亡し、直径が百歩(ぶ・約26メートル)余りの塚をさかんに作り、殉葬者は奴婢が百人余りである。
あらためて男王を位に付けたが、国中が服さない。互いに罪を責めて殺し、当時千人余りが殺された。
ふたたびヒミヲの跡取り女、年が十三のイヨを位につけ王とし国中が治まった。張政などはイヨに通告文でつげさとした。イヨは倭の大夫である率善中郎將ヤザクなど二十人に張政などの帰りを送らせ、朝廷にゆかせて、男女の生口三十人を献上し、白たま五千個、青大まがたま二枚、珍しい文様が混じる錦二十匹を貢いだ。

原文の訂正

至對海國の海は馬に訂正しました。
一大國は一支國に訂正しました。
伊都國の有千餘戸は萬餘戸に訂正しました。
東南至奴國百里の東南を東に訂正しました。
在會稽東治之東の東治を治所に訂正しました。
投は=柗=松としました。
桃支は桃枝=桃枝竹としました。
短弓のは拊に訂正しました。拊=柎=弣で手で握るところの意味。
は辞書に見あたらないので、罽に訂正しました。
注:
ヌ国が2個あります。片方は脱字が有ると判断します。もう片方にも脱字が有る可能性があります。
漢委奴国王印のヰヌ国との関係は不明です。
ゲヌソヌ国のソヌは誤記の可能性が高いと判断します。


「魏志倭人伝」の原文

岩波文庫「魏志倭人伝」石原道博編訳に掲載された百衲本の影印を基に入力しました。
読みやすくするために適宜句点を付けました。

倭人伝全文

倭人在帯方東南大海之中.依山嶋爲國邑.舊百餘國.漢時有朝見者.今使譯所通三十國.

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里.始度一海千餘里.至對海國(紹興本では對馬國).其大官曰卑狗.副曰卑奴母離.所居絶嶋方可四百餘里.土地山險多深林.道路如禽鹿徑.有千餘戸.無良田食海物自活.乗船南北市糴.又南渡一海千餘里名曰瀚海.至一大國.官亦曰卑狗.副曰卑奴母離.方可三百里.多竹木叢林.有三千許家.差有田地耕田猶不足食.亦南北市糴.又渡一海千餘里.至末盧國.有四千餘戸.濵山海居.草木茂盛行不見前人.好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之.東南陸行五百里到伊都國.官曰爾支.副曰泄謨觚.柄渠觚.有千餘戸.丗有王皆統屬女王國.郡使往來常所駐.東南至奴國百里.官曰兕馬觚.副曰卑奴母離.有二萬餘戸.東行至不彌國百里.官曰多模.副曰卑奴母離.有千餘家.南至投馬國水行二十日.官曰彌彌.副曰彌彌那利.可五萬餘戸.南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月.官有伊支馬.次曰彌馬升.次曰彌馬獲支.次曰奴佳鞮.可七萬餘戸.自女王國以北.其戸數道里可得略載.其餘旁國遠絶不可得詳.

次有斯馬國.次有巳百支國.次有伊邪國.次有都支國.次有彌奴國.次有好古都國.次有不呼國.次有姐奴國.次有對蘇國.次有蘇奴國.次有呼邑國.次有華奴蘇奴國.次有鬼國.次有爲吾國.次有鬼奴國.次有邪馬國.次有躬臣國.次有巴利國.次有支惟國.次有烏奴國.次有奴國.此女王境界所盡.

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

其南有狗奴國男子爲王.其官有狗古智卑狗不屬女王.自郡至女王國萬二千餘里.

男子無大小皆鯨面文身.自古以來其使詣中國.皆自稱大夫.夏后少康之子封於會稽.斷髪文身以避蛟龍之害.今倭水人好沈没捕魚蛤.文身亦以厭大魚水禽.後稍以爲飾.諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差.

(注:この青字の文は前後の文と異質なものを感じます。後日魏略等の文が挿入されたものと推理します。)

計其道里當在會稽東治之東.
其風俗不淫.男子皆露紒以木緜招頭.其衣横幅但結束相連略無縫.婦人被髪屈紒.作衣如單被.穿其中央貫頭衣之.種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜.其地無牛馬虎豹羊鵲.兵用矛楯木弓.木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃.

所有無與儋耳朱崖同.

(注:この文は前後の文と異質なものを感じます。後日挿入されたものと推理します。)

倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣.有屋室父母兄弟臥息異處.以朱丹塗其身體如中國用粉也.食飲用籩豆手食.其死有棺無槨封土作冢.始死停喪十餘日當時不食肉.喪主哭泣他人就歌舞飲酒.巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐.
其行來渡海詣中國.恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人.名之爲持衰.若行者吉善共顧其生口財物.若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹.
出真珠青玉其山有丹.其木有杍豫樟楺櫪投橿烏號楓香.其竹篠簳桃支.有薑橘椒蘘荷.不知以爲滋味.有獮猴黒雉.

其俗舉事行來有所云爲輙灼骨.而卜以占吉凶先告所卜.其辭如令龜法.視火圻占兆.

(注:この文は前後の文と異質なものを感じます。後日挿入されたものと推理します。)

其會同坐起父子男女無別.人性嗜酒.見大人所敬但搏手以當跪拜.

其人壽考或百年或八九十年.其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦.婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟.其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族.尊卑各有差序足相臣服収租賦.

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

有邸閣國國有市交易有無使大倭監之.自女王國以北特置一大率檢察諸國(紹興本では諸國を繰り返す)畏憚之.常治伊都國於國中有如刺史.王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國.皆臨津搜露傳送文書賜遣之物.詣女王不得差錯.下戸與大人相逢道路逡巡入草.傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬.對應聲曰噫比如然諾.其國本亦以男子爲王住七八十年.倭國亂相攻伐歴年.乃共立一女子爲王名曰卑彌呼.事鬼道能惑衆.年巳長大無夫壻.有男弟佐治國.自爲王以來少有見者.

以婢千人自侍.

(注:この紫字の文はリアリティーを感じません。)

唯有男子一人給飲食傳辭出入居處.宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞.

女王國東渡海千餘里.復有國皆倭種.又有侏儒國在其南人長三四尺.去女王四千餘里.又有裸國黒齒國.復在其東南船行一年可至參問倭地.絶在海中洲嶋之上.或絶或連周旋可五千餘里.

(注:この文は前後の文と異質なものを感じます。後日挿入されたものと推理します。)

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻.太守劉夏遣吏將送詣京都.其年十二月詔書報倭女王.曰制詔親魏倭王卑彌呼.帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利.奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到.汝所在踰遠之遣使貢獻是汝之忠孝.我甚哀汝今以汝爲親魏倭王.假金印紫綬.装封付帯方太守假授.汝其綏撫種人勉爲孝順.汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞.今以難升米爲率善中郎将.牛利爲率善校尉.假銀印青綬.引見勞賜遣還.今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直.又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤.皆装封付難升米牛利.還到録受悉可以示汝國中人.使知國家哀汝.故鄭重賜汝好物也.正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等.奉詔書印綬詣倭國拜假倭王.并齎詔賜金帛錦刀鏡釆物.倭王因使上表荅謝詔恩.其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人.上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木短弓矢.掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬.其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假綬.其八年太守王頎到官.倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和.遣倭載斯烏越等詣郡.説相攻撃状.遣塞曹掾史張政等.因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之.卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人.更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人.復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定.政等以檄告喩壹與.壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺.献上男女生口三十人.貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹.


「魏志倭人伝」の距離、方角に関する考察

「魏志倭人伝」の距離、方角の測量法

 魏の時代に使われた距離を表す単位の里について、長里と短里があると云われています。はたして長さが違う里を使っていたでしょうか。その測量法はどんなものだったでしょう。現在よく知られている測量法として、「周髀算経」に書かれている太陽の影を測定する方法があったことが知られています。他に別な測量法があったと云うことを聞きません。「周髀算経」に書かれている方法で測量された数値が「魏志倭人伝」に記載されたと思われます。
 「魏志倭人伝」の里数、方角を検証するためには、「周髀算経」の測量法と計算法を知る必要があります。「周髀算経」の記述は、周公が商高に、栄方が陳子に対する問答形式をとっています。周の時代に書かれたとする説、内容から後漢時代に書かれたとする説、周の時代に書かれたが後の時代に追加記載されたとする説があります。
 内容は地球が平面であり、その上に天が平行して地を覆っているという考えを中心として、天の運行を観測する方法を述べているようです。太陽の影で距離を計算する方法を記述して、観測地から太陽直下までの距離を計算し、太陽の高さを計算し、句股定理により観測地点から太陽までの距離を計算しています。

「周髀算経」の測量法

 この中に「魏志倭人伝」に記載された、帯方郡の使者一行が測量したと考えられる土地を推理するのに重要な三つの要素を含んでいます。
 第1に太陽の影を測定して距離を計算する方法です。夏至の太陽が高く昇った時に8尺の棒を垂直に立てるとその影は16寸になる。南に行きこの8尺の棒の影が1寸縮んで15寸になる地点と16寸の地点の間を1,000里とする。同じように北に行き影が1寸伸びて17寸になる地点との間を1,000里とすると定義していることです。8尺の棒を垂直に立てることは困難と考えられますが、細めの棒の一端を細いひもで結び吊すことでかなり正確な垂直を実現できます。影の長さは地に付いていても空中にあっても同じです。
 第2は太陽の影を観測して方位を測量することです。地上に棒を立て、日の出の時間に影を記録し、午後の日の入り時間に影を記録し、両方の端を結ぶ直線を引くとこれが東西を示し、折半すると南北を示すということです。この他に冬至の午後6時に地上に棒を立て、棒の根本から縄を引き、北極の大星と棒が重なる角度で地上に置く。午前6時に同じように、北極の大星と棒が重なる角度に縄を置く。縄と縄の中間が南北を示す。縄の長さが同じ点を結ぶと東西を示すというものです。
 第3は句股定理(三平方の定理)として、ピタゴラスの定理として知られている、直角三角形の2辺の平方の和が斜辺の平方に等しいことが書かれています。

「周髀算経」の1里の長さ

 夏至に於ける太陽の影を知るには、三角関数を使い地球の表面にできる影を計算します。緯度から地軸の傾きの度数を差し引き、地球上の垂直な棒と太陽の角度を計算します。
 「周髀算経」の1里の長さを計算すると、夏至に8尺の棒の影が16寸となる地点は北緯34度46分付近となります。これに近い古い都市は、黄河に沿って点在する都市が幾つかあります。洛陽もその中の一つです。
 地軸の傾きを23.452度として、夏至に北緯34度46分から南に影が1寸短くなる地点までの1里の長さは約76.8メートルです。北緯40°から南に影が1寸短くなる地点までの1里の長さは約73.5メートルになります。北緯30°から北に影が1寸長くなる地点までの1里の長さは約78.6メートルになります。これらは、理論上のもので太陽の影が最短になる日と時間に測定した場合です。このように、丸い地球上では緯度により影の長さが違っています。
 このように、「周髀算経」の1里の長さは緯度による変化があるために、南北に移動すると伸縮する里をメートルに換算して検証することは適当ではありません。「魏志倭人伝」の検証をする場合は、「周髀算経」の方法で検証すべきです。

帯方郡から女王國までの距離と方角を推理する

 推理するにあたり注意すべき点は、一は郡から末廬國までの距離が、「周髀算経」の測量方法で影の差から南北の里数を計算し、三平方の原理を応用して東南の距離を計算していると考えられることです。魏の時代には他に測量法が無かったと思います。
 二は「魏志倭人伝」での方角は東西南北の他に東南が使われています。360°を8等分して表しています。測定は「周髀算経」の方法で十分に精密な東西の方位を確定できると考えられます。誤記が無ければ記載された方位が正確だったと推理します。
 三は「魏志倭人伝」の時代は海水面が現在より高く、現在では陸地になっている平野部分の多くが海面下にあったことです。縄文時代には場所による違いがあると考えられますが今の陸地より10メートル位高い所にまで海面が上がったと考えられています。「魏志倭人伝」の時代には少し海面が下がっているが、現在と比べると5メートル前後も高かったと考えられています。それだけ平地が少なかったことが明らかとなっています。

郡より・・狗邪韓國に到七千餘里

 郡とは帯方郡でありその役所の所在は幾つかの説があります。
 一は鳳山郡沙里院にある唐土城沙里院付近にあったとするもの、二は平壌の南西60km、安岳郡にあったとするもの、三は現在のソウル付近にあったとするもの、四はソウルの東南40kmの広州にあったとするものがあります。一の沙里院付近説が最も信憑性があると考えて、出発点の郡は沙里院付近とします。
 狗邪韓國についても、釜山付近とする説、巨済島付近とする説がありますが、釜山付近が有力と考えます。
 沙里院付近の北緯は38度33分付近で、夏至における8尺の棒の影は21.6寸です。東南方向に7,000里とすると、直角二等辺三角形の斜辺が7,000×7,000で49,000,000になり直角を挟む一辺の長さすなわち南北の距離は約5,000里で、影の長さは約5寸短くなるところとなります。北緯で見ると35度05分付近になります。影の差5寸は5,000里で斜辺の長さは7,071里となります。
 北緯35度08分付近で沙里院から東南方向には釜山が目につきます。沙里院と釜山の影の差は計算上5.04寸で、南北5,040里となります。距離は計算上7,128里となり、到七千餘里の記載と矛盾しません。狗邪韓國は釜山付近と推測します。
 計算上では郡の所在は一の沙里院付近と、二の安岳郡の可能性があります。三、四は狗邪韓國が海の中になり可能性がありません。

狗邪韓國・・末廬國は、千餘里が三つ

 釜山付近から九州・中国地方の北部にかけて南北に3,000里以上、影の長さで3寸以上差がある場所はありません。これは釜山から東南へ斜線で3,000里以上を表していると考えます。
 斜線が3,000とすると南北は約2,000里で影の長さで差が2寸以上となります。最短を考えると影の長さ2.13寸で斜辺の長さ3,012里が考えられます。この地点は北緯33度40分で糸島半島の先端付近になります。
 斜線が3,900とすると南北は2,757里で影の長さで差が2.757寸となります。北緯33度28分位となり唐津市付近が該当します。唐津付近とすると次の末廬國から伊都國まで東南に500里が南に行きすぎて、次の奴國と不彌國が海の中になります。
 当時の航海は危険が多く特に外洋の航路は最短コースをとったと考えるべきでしょう。壱岐から最短の航路をとったものと考えると、呼子・名護屋付近を末廬國とすることが妥当と考えます。呼子付近は北緯33度32分付近となります。計算上では影の長さが14.22寸で、影の長さの差が2.32寸になり南北に2,320里、斜辺の長さは3,281里となり、千餘里が三つある記載と矛盾しません。末廬國は四千餘戸と記載されています。

末廬國・・伊都國

 末廬國から伊都國まで東南に五百里と記載されています。
 直角二等辺三角形とすると南北の距離が約360里で影の長さの差は0.36寸になります。このように小さな影の差は正確に測定できなかった可能性が高いと思いますが、あえて計算すると北緯33度17分付近で、影の長さは13.86寸となります。直角二等辺三角形と考えて、呼子付近から33度17分までの南北差と同程度東に移動すると小城市付近となります。
 当時は有明海の海水面が現在より高く、佐賀平野の半分以上が海底にあったと考えられています。平野部が少なかったことを考慮すると、小城市の東にある嘉瀬川から西にあり、比較的に高台となっている所が伊都國の政治の中心地であったと推理します。伊都國は千餘戸と記載されていますが、戸数が少なすぎると思います。「魏略」には万餘戸とされていることから、万餘戸が正しいと推測します。末廬國からの径路と多久市付近を含めて領国だったと推測します。

伊都國・・奴國・・不彌國

 伊都國から東南100里で奴國とありますが、その後に東100里で不彌國とあり、これでは海中になります。伊都國から東南100里は方角の誤記と推理します。ここは東が正しいと思います。場所は佐賀市の北部で、嘉瀬川の東側で城原川の西側にあったと推理します。
 奴國は嘉瀬川上流域から南は弥生時代には陸地になった海岸地域に広がり、その一部が水田として開拓され、比較的に食料が豊富であったと推理します。奴國は二万餘戸と記載されています。
 奴國から東に100里で不彌國とあります。地図の上で探すと北緯33度19分付近には吉野ヶ里があります。吉野ヶ里は不彌國の政治の中心地であったと推理します。不彌國は千餘家と記載されています。領域は比較的狭い國だったようです。

投馬國と邪馬壹國

 方角の南は不彌國を基点としているか、伊都國を基点としているか不明です。長い距離であれば東西200里の違いは、ほとんど影響しないと思います。 伊都國には帯方郡の使者が滞在するなど、近辺の中心地であったと想定されることを考えると水行二十日などの行程については伊都國が基点であった可能性が高いと考えます。
 南至投馬國水行二十日と南至邪馬壹國水行10日陸行1月はどちらも同じ場所を基点とした旅程を示したものと考えます。有明海の北岸から南に水行二十日と引き続き水行十日では旅程が長すぎると思います。
 投馬國には郡の使者一行が訪問していないと推理します。距離について触れていないからです。水行二十日は倭人からの伝聞を基に記録されたものと思います。
 一方、邪馬壹國水行10日陸行1月は郡の使者一行が訪問していると推理します。自郡至女王國萬二千餘里と距離を記載していることは、太陽の影を測定していたと考えられます。他に、女王国の風俗、王宮の有様、會稽東治之東など具体的な記載があるからです。

邪馬壹國女王之所都について

 南に邪馬壹國と自郡至女王國萬二千餘里と記載されています。
 帯方郡役所から伊都國(小城市付近)までの距離は合計で約10,800里となります。 ここから女王國までの最短距離は12,000里から10,800里を差し引くと1,200里、これにプラスαとなります。太陽の影は12.66寸となり北緯32度26分で宮原町付近となります。
 最長は12,900里から10,800里を差し引くと2,100里となり、太陽の影は11.76寸になり北緯31度48分で川内市付近となります。
 北緯32度26分から北緯31度48分の間で陸行1月に該当しそうな土地は球磨盆地(人吉盆地)以外見あたりません。
 邪馬壹國は七万餘戸と記載されていて、人が住める比較的平坦な土地が広く、國の領域が広かったと推測します。
 球磨盆地(人吉盆地)は北緯32度08分付近で太陽の影12.21寸となり、伊都國(小城市付近)の影13.77寸との差は1.65寸1,650里です。沙里院から釜山まで約7,100里、釜山から呼子まで約3,200里、呼子から小城市まで約500里、小城市から人吉まで約1,600里、合計12,400里となります。

水行10日陸行1月

 当時の船による旅は危険を避けるために出来るだけ浅い海を航行したと推理します。浅い海は現在平坦な平野となっている地域で、「魏志倭人伝」の時代には海だった所です。それは有明海の北部から東部の海岸です。
 小城市付近を出発点として、佐賀平野の南部が海面下にあったので、遠浅の海を東に進み吉野ヶ里の南を筑後川の当時の河口付近まで進み、そこから南に転じ大牟田市付近を南下して、東南に向かい、宇土市付近は当時海だったと思われるので、ここを通り宮原町付近の氷川と川俣川の合流地付近に上陸するコースが考えられます。
 宮原町付近から山道に入り、大通越を経由し、五木村を経て球磨盆地(人吉盆地)に入るコースが古代人にとって、最良のコースと思います。
 他に八代市付近まで南下して、球磨川河口に上陸することも考えられます。球磨川沿いに上流に上り球磨盆地(人吉盆地)に入るコースです。
 古代人にとって川沿いに上流に向かうことは、たびたび川を渡らなければならないので、困難が多く、多くの古代の道は峰伝いか、峰に近い所を選んで歩いたと考えられます。球磨盆地(人吉盆地)への道は宮原町付近から山に向かうコースだったと推理します。
 帯方郡の使者一行は天気が良く、波が穏やかな日だけ朝ゆっくりと出発し、午後は早く(満潮時間帯または干潮時間帯に航行して)港に上陸して旅行したと考えられます。どのような船で旅行したか不明ですが、多めに報告されたとすると、水行10日は不自然な表現ではないと考えます。
 宮原町付近から人吉までの山道は、道なりの距離は60キロメートル位あると思います。これも細い獣道のような粗末な山道ですから、帯方郡の使者一行は一列縦隊で、荷物を持参していると考えると、一日の行程は4~6キロメートル位ではないでしょうか。また、天候により雨の日は当然逗留したものとして、多めに報告されたとすると不自然ではないと考えます。
 伊都國(小城市付近)から邪馬壹國までの距離を記載しないで、日数で記載した理由は距離の割に日程が長いことを考えてのことかもしれません。

投馬國について

 南至投馬國水行二十日とあります。
 距離を具体的に示していないのだが、馬が島を表すと考えて天草を指すものと推理します。
 行程は邪馬壹國への行程に加えて、宮原町付近から宇土半島の南岸を進み、戸馳島、維和島を経て天草上島の北岸を西南に進み、現在の本渡市付近が投馬國の政治の中心であったと推理します。
 宮原町付近までを十日とすると、そこから本渡市付近までが十日、合わせて二十日とすれば距離の割合から特別に不自然ではないと考えます。
 帯方郡の役人が現地人から聞いたものとすれば距離が示されないこともやむを得ないものと考えます。

計其道里當在會稽東治之東とは

 その道里を計るとちょうど會稽東治の東にある。
 會稽東治を会稽郡東冶県の誤りとして、現在の福建省福洲市付近とする説があります。
 他に会稽郡の治所(役所)があった所として、現在の紹興市付近とする説があります。
 その道里を計るとは「三國志」選者の陳寿が里数を比較したということで、「魏志倭人伝」の里数と中国国内を測量した里数とがほぼ一致したといっているわけです。
 帯方郡から女王國まで萬二千餘里ですから、これと中国国内の里数を比較する必要があります。
 邪馬壹國(球磨盆地(人吉盆地))は北緯32度08分で太陽の影は12.21寸になります。福洲市付近は北緯26度05分で、太陽の影が3.67寸になります。紹興市付近は概ね北緯30度で太陽の影は9.18寸になります。
 福洲市付近が緯度で6度03分の差があり、紹興市付近は緯度で2度08分の差です。 里数を比較するには沙里院と洛陽の緯度の違いを調整する必要があります。沙里院が北にありますから、洛陽から福洲市付近、紹興市付近までの距離に、洛陽から沙里院相当までの距離を加算します。
 洛陽の太陽の影は16寸です。沙里院の太陽の影は21.58寸です。その差は5.58寸で5,580里となります。
 福洲市付近の太陽の影は3.67寸です。洛陽との差は12.33寸で12,330里となり、合計で17,910里となります。
 紹興市付近の太陽の影は9.18寸です。洛陽との差は6.82寸で6,820里となり、合計で12,400里となります。
 郡(沙里院)と邪馬壹國(球磨盆地(人吉盆地))の間は約12,400里で紹興市付近と一致します。
 陳寿が里数を比較したのは、紹興市付近までの里数と邪馬壹國までの里数だったと推理します。このことから會稽東治は會稽治所の誤記と推測します。

其南有狗奴國

 球磨盆地(人吉盆地)の南にはえびの市があります。西には大口盆地があり、東には小林盆地から都城盆地に続く弥生人の居住可能地域と思われる土地があります。
 これらの南側にはかなり広い地域があり、女王國が有明海周辺を勢力圏としていたとすると、十分対抗できる勢力圏があったと思われます。「魏志倭人伝」に記載された出来事の後には狗奴國が女王國(劣勢で魏国に援軍を求めていた)を征服した可能性が大きいと考えています。


夏至の緯度と影の関係(概算)

地名と緯度の関係はおおよそです。
太陽による影は地軸の傾きを23.452度としました。
地上に8尺の棒を垂直に立てた場合の影の長さを計算しました。
計算はエクセルの関数を使いました。

地 名    北 緯    影(寸)    1里の長さ
北 京   40度00分  23.77   73.5メートル
洛 陽   34度46分  16.00   76.8メートル
沙里院   38度33分  21.58   74.6メートル
釜 山   35度08分  16.54   76.6メートル
呼 子   33度32分  14.22   77.5メートル
唐 津   33度28分  14.13   77.5メートル
小 城   33度17分  13.86   77.6メートル
宮原町   32度26分  12.66   
人 吉   32度08分  12.21   78.1メートル
川内市   31度48分  11.76   
紹 興   30度00分   9.18   78.6メートル
福 洲   26度05分   3.67   79.5メートル

[距離計算図]

後記

 漢和辞典には古代中国の度量衡が掲載されています。この中に一里の長さが掲載されていますが、おそらく古代遺跡から発掘された物差しの長さを基に換算された数値と思います。古代遺跡から発掘された物差しが「里」の基準となるのか疑問があります。換算された「里」でどう測量されたか、その方法が明らかでありません。具体的に何処から何処まで何里と測量結果が記録されているのでしょうか。
 わが国ではメートル法が施行されるまで、裁縫では鯨尺を使い、建築では曲尺を使っていました。物差しは、その用途により違った長さの物が使われることがあります。物差しの長さから「里」の長さを換算できないことがあります。
 三角測量の技術が無かった時代に、山川を越え、海を越えて長い距離を測量する方法として、太陽による影を測定して南北の距離を計算する方法は古代においては画期的で、精密性では誤差が大きかったが、今日のGPS衛星を使った測量にも対比されるべきほどの技術だったと考えます。
 影の測定から南北の距離を計算する方法が、文献記録と矛盾しないか検証する必要があると考えます。「魏志倭人伝」は格好の材料です。私が後日の挿入と考えた部分を除いて検証した結果は全く矛盾しないことが明らかとなりました。
 中国の魏の時代にはこの測量法が行われていたことが証明されたと考えます。


魏志倭人伝の植物に関する考察

 漢字は中国で長い間使われてきたが、その間に字体が変わったり意味が変わったりしています。
 中国の古い辞書で西暦100年にできた「説文解字」と西暦1680年の「正字通」では意味が違う場合があります。西暦1716年にできた「康煕字典」は字体や意味を統一するために創られたものです。統一するために字体が違うものや意味が不明となったものは排除されました。意味が変化したものは最新の意味を正しいものとして採用されています。
 現在の漢和辞典は「康煕辞典」に準拠するものがほとんどです。この辞典ができる1400年も前の漢字で意味が不明になったものや、漢字そのものがあったかどうか不明になったもの等があります。辞書に記載されたこと以外にも推理することの必要性があると考えます。

栽培植物の部

 「禾稲(カトウ)」 「禾」はイネ又は穀類のくきです。「稲」は粘りけのある米類をいいます。「禾稲」でイネを意味していると解します。

 「紵麻(チョマ)」 「紵」は麻の一種でイチビを表します。「麻」はアサ皮、アサ糸を意味します。「紵麻」で真麻・大麻を意味していると解します。

 「蠶桑(サンソウ)」 「蠶」はカイコです。「桑」はクワです。「蠶桑」はカイコの餌の桑を植えて、カイコを飼うことを意味する熟語です。「桑」はカイコの餌として栽培しているものと解します。

木の部

 「(ナン)」 本字は「枏」で梅とするものと、楠(くすのき)とするものがあります。大修館の大漢和辞典に、「説文解字」の梅説と「正字通」の楠説を並べて、楠を採っています。「魏志倭人伝」が書かれた少し前にできた「説文解字」の説を採ります。ここではウメと解します。

 「(リ)」 杼(ドングリ)とする説が多いようですが、印影が鮮明でないために旁をみると「予」と「子」のどちらにも見えます(紹興本では「杍」)。「予」のドングリの木は、すこし違和感があります。これは旁が「子」で、「説文解字」が李の古字としている「杍」と推理します。李としスモモと解します。

 「豫樟(ヨショウ)」 2字で表記してクスノキを意味しています。「予章」とも表記します。クスと解します。

 「楺(ニュ)」 大漢和辞典に、木の名として、種類を特定していません。「楙(ボウ)」ボケとする説がありますが、「楺」は大漢和辞典では別の字としているようです。
 台湾のホームページに国立政治大学民族学研究所・潘英海の「(重修台湾省通志巻三住民志同胄篇)平埔諸族」の文章が掲載されています。明時代の末から清時代の初め頃に記録された古文書を分析しています。
 平埔諸族とは台湾の平地に住む原住民諸族を指す言葉です。
 その中に物質文化として平埔諸族の嗜好品をあげていますが、檳榔樹の実を食べる習慣があったことが記載されています。そこに平埔諸族は昔から檳榔樹を「楺楺」と呼んでいたことがしるされています。この呼び方は悠久の歴史時代まで遡ることができると記しています。
 古代中国で檳榔樹を「楺」と呼んでいた名残が台湾の原住民の間に長く使われてきたと推測します。 檳榔樹はヤシ科ビンロウ属の常緑高木で、インドネシア・マレー地方の原産です。台湾では自生して、近年までその果実をキンマの葉で包んで噛み、嗜好品としていました。
 「楺」が檳榔樹等の種類(ヤシ科)を総称したものと推理します。檳榔樹が九州に自生していたと考えるのは無理があると思います。ヤシ科の植物で九州に自生するものは、ヤシ科シュロ属の「ワシュロ」とヤシ科ビロウ属の「ビロウ」が思い浮かびます。「ビロウ」は宮崎県の青島に現在も自生しています。「ビロウ」は古くは「あじまさ」(漢名は蒲葵)と呼ばれ、古事記に大雀命(おおさざきのみこと)=(仁徳天皇)の歌として「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 淤能碁呂島(おのごろしま) 檳榔(あじまさ)の 島も見ゆ 放(さ)けつ島見ゆ」とある。 帯方郡の役人がビロウを目撃したとすると強い印象を持ったと思われます。ここでは「楺」の実態は「ビロウ」と解します。

 「櫪(レキ)」 大漢和辞典では「櫟(クヌギ)」に通ずとしています。クヌギと解します。

 「」 「柀」の誤記として、スギとする説が多いようです。廣漢和辞典に「木」偏の旁が「殳」で読みはジュ、木の名(集韻)と記載されています。「投」の手偏は誤記で「木」偏が正しいと推理します。ただし、木の種類を特定していません。字の形から「柗」の別体と推理します。柗同松「正字通」でマツと解します。
 「魏志倭人伝」の時代には陸行は尾根道か尾根に近い道を歩いたと考えられます。山の尾根近くによく生える松は、帯方郡の役人一行が目撃する機会が多かったと推理します。

 「橿(キョウ)」 廣漢和辞典に、木の名でカシ、モチとあります。カシはブナ科コナラ属の常緑高木の一群の総称です。モチはモチノキ科の常緑高木です。カシ、モチ両方とも九州に自生していたと思われます。「新字源」ではモチノキだけを記載しています。ここではモチノキと解します。

 「烏號(ウゴウ)」 「烏號」の字義はカラスの号泣です。中国の黄帝が愛用した弓の称号を「烏號」といったという神話に基づきます。この弓は堅くて反発力が強い「桑拓(ヤマグワ)」で作られた良弓だったということです。これから「桑拓(ヤマグワ)」を烏號と呼ぶようになったようです。
 なぜ「烏號」というかを説明する話があります。桑拓の木は堅く強い、その枝にカラスが止まってまさに飛び立とうとすると、枝がたわんで飛び立てず号泣するので、この木で作った弓を「烏號」と呼ぶといいます。ヤマグワと解します。

 「楓香(フウコウ)」 廣漢和辞典に、「楓(フウ)」木の名、中国原産、楓香樹とあります。マンサク科フウ属の高木。樹脂に芳香があります。葉はカエデに似ていますが、カエデの葉は対生であるのに、フウの葉は互生します。
 埼玉県立自然史博物館のホームページには以下のような記事が載っています。
 「フウは新第三紀(2600~200万年前)の地層から葉の化石がよく見つかることで有名です。埼玉でも川本町の荒川の河原で葉の化石が見つかっています。
 かつては日本に広く分布していたフウも、新第三紀が終わり氷河時代に入り地球が寒冷な気候に覆われると、次第に分布を狭(せば)め、ついには消滅していきました。そして比較的条件のよかった大陸東岸などに生き残ったのでしょう。このようなわけでフウは新第三紀を代表する植物化石のひとつと考えられてきました。」
 「フウは葉や果実だけでなく、花粉の化石も発見されます。そして花粉の化石から、今まで考えられていたよりも新しい時代まで生き残っていた可能性が出てきました。1990年埼玉県が地盤沈下対策のための観測井(かんそくせい)を春日部市で掘りました。その時採取された地層を使って、花粉化石を調べました。すると、かなり浅い第四紀(200万年~現在)の地層から、たくさんフウの仲間の花粉化石が発見されたのです。地層は浅いほど新しいですから、今までの常識をくつがえす発見になるかも知れません。」
 「沖縄では、古くても数万年前の低位段丘の地層から化石が見つかっています。フウが日本から消滅する過程でも、すぐに消滅したところと、あとまで頑張ったところと、さまざまだったというのが真相なのかもしれません。」
 現在では中国南部や台湾に自生していますが、当時九州に自生していた可能性は少ないと推測します。
 ここでは葉が似ているカエデを見間違えたと推理します。

竹の部

 「篠(ショウ)」 大漢和辞典に、シノ、ササとあります。笹や細い竹類を総称する言葉です。ここはシノ竹とします。

 「簳(カン)」 大漢和辞典に、シノ、ヤダケとあります。細く幹が真っ直ぐに伸びる竹を総称します。弓矢に使われるものを含みます。ここはヤダケとします。

 「桃支(トウシ)」 支は枝の誤記か、当時支と枝が共通に使われたものか分かりません。大漢和辞典に、「桃竹」「桃枝竹」の例があります。竹の表皮が桃の木の枝のように赤いといいます。
 現在の黒竹の仲間と推理します。

その他の部

 「薑(キョウ)」 草の名でショウガ・ハジカミとされています。ハジカミは古名、ここではショウガとします。

 「橘(キチ)」 木の名で食料ミカンの古代名です。

 「椒(ショウ)」 木の名でサンショウです。

 「蘘荷(ジョウカ)」 草の名でミョウガ。蘘1字でミョウガですが、2字で同じ意味になります。蘘、蘘荷也「説文解字」。ミョウガと解します。