2012-13 ENGLAND PREMIER LEAGUE

サッカーの広まり

 Footballの最初の国際試合も、イングランドによって始まりました。

 第1回FA-Cupが行われた同じ年、1872年11月スコットランドのハミルトンクレセントで4,000人の観衆を集め、スコットランドの有力クラブ 「Queen's Park FC」とイングランド代表チームの試合が行われました。初めての国際公式試合と謂われています。
翌1873年には世界で2番目に古い歴史を持つスコットランド・サッカー協会が創設されます。

 その後スコットランドに続きウェールズ、アイルランドでもサッカー協会が作られ、協会代表による親善試合が何度か行われたことで、 4つの協会は1882年12月、マンチェスターで会合を開きました。
 会議では、国際ルールの制定のために「国際サッカー評議会(IFAB)」が設置され、 同時に世界初の国際スポーツ・イベント
『The British Championship』の実施が決められました。

 第1回の『The British Championship』は1883-1884年のシーズンに行われ、スコットランドが覇者となりました。
その後100年余に亘って89回の大会が開かれ、1980-'81年シーズンを最後に幕を閉じました。
 ワールドカップが1930年から始まるまで、それは最も重要なトーナメントとされました。



FIFAの設立

 スポーツとしてのサッカーは、当時の世界に冠たる国家として広大な植民地を持っていた英国や、産業革命後期のヨーロッパの繁栄に伴う 人々の往来とともに急速に各国・地域に伝わって行きます。特にヨーロッパではFAが作った「ルールブック」の翻訳が各国で行われ それぞれの国々ではFAを模したサッカー協会が作られ、FA-Cap同様の競技会が実施されるようになって行きました。

そして、FIFA国際フットボール連盟(Federation Internationale de Football Association)が設立されることになります。


 1902年オランダ・フットボール協会(NVB)事務総長はFA事務総長フレデリック・ウォールに向けて手紙を送っている。 これが、FAと行われた話し合いの最初であった。しかし、ウォールの返事が NVBに届いたのは手紙が送られてから一年が経過したあとだった。 返書には、各国のフットボール協会をイングランドに招待し会議を開催すると書かれていたが、その会議がいつ行われるかは示されていなかった。 このことから見て、FAはフットボールの国際組織設立には消極的であったことが分かる。
  1904年、フランス総合スポーツ連盟(USFSA)事務局長ロベール・ゲラン(Robert Gue'rin)が呼び掛け人となり フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイスからの代表が5月21日パリでの会議が開催される。 フットボールの国際試合の開催、ルールの制定などを話し合い、参加各国のフットボール協会は国際フットボール連盟= FIFA(Federation Internationale de Football Association)の設立に署名した。    
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2005/youyaku-index.htm


FIFA会長 (就任時期:名前:経歴)
1904-1906年 ロベール・ゲラン
Robert Gue'rin
フランス人 1876-1952年。フランスの『Le Matin』紙でジャーナリストとして活動する一方、 スポーツ統括団体USFSA(Union des Societes Francaises de Sports Athletiques)のフットボール委員会幹事を務めた。 1904年から1906年まで、フットボール・フランス代表チームの監督でもあった。
1906-1918年 ダニエル・バーリー・ウールフォール
Daniel Burley Woolfall
イギリスのブラックバーン出身 1852-1918年。ブラックバーンのグラマースクールを卒業し、 税務署勤務のかたわらブラックバーン・ローヴァーズに関与するようになった(ただし選手としてプレーはしていない)。 その後ブラックバーンの属するランカシャー州のフットボール協会会長に就任。 66歳のとき、現職会長として故郷ブラックバーンで死去した。
1921-1954年 ジュール・リメ
Jules Rimet
フランス人 1873-1956年。フランス・フットボール連盟 FFF(Federation Franncaise de Foodball)の創設に関わり、 初代会長(1919〜1945年)となる。  FIFA二代目会長ウールフォールの急死に伴い、臨時的に業務を代行後、1921年のFIFA理事会で正式就任。
 設立当初、FAをはじめとする英国4協会はFIFAには加わりませんでした。
しかしFIFAが加盟国以外との国際試合を禁じたため、1905年英国4協会も加盟しました。
またFIFAも1913年、英国4協会が運営している国際サッカー評議会(IFAB)の5番目のメンバーになります。




イングランド対フランス

20世紀の前半、英国4協会は二度に亘り、FIFAから脱退します。

  英国4協会のFIFA脱退の一度目は1920〜24年。第一次世界大戦後、連合国側はブリュッセルにおける会議で敗戦国のFIFAからの脱退を求めました。 これに対し戦時中に中立だった各国は旧同盟国の排除を望まず、これが反対されると、英国4協会はFIFAを脱退します。
二度目は1928〜46年。英国4協会がFIFAに求めたオリンピック参加選手への休業補償が拒否されたためでした。

  当時、オリンピックに於けるフットボール競技を管理運営を託されていたFIFAは、オリンピック参加各国にプロ選手の出場禁止を厳格に守るよう 指導していました。
 既にイングランドでは1885年、FAカップにプロ選手の参加を認めており、最高のフットボールゲームにプロ選手は欠かせないものとの考えがあり、 プロ選手の参加を認めないオリンピックのサッカー競技とFIFAの姿勢には、懐疑的となっていました。
そして何よりも、アマチュア選手は時給によって生活を賄う労働者であったため、2週間〜3週間に及ぶオリンピックへの参加は大きな負担でした。 その為FAはFIFAに対し、アマチュア選手がオリンピック参加期間中に失う収入を補償するように求めたところ、FIFAはこれを拒否しました。
 これにより、FAはFIFAを脱退します。

 FAとFIFAとの確執は「FIFA」設立当時からのものであり、イングランドとフランスの歴史背景も垣間見られることから、 FAはその後18年間にも亘りFIFAから遠ざかる事となりました。



World Cupの開始

1928年。FAがFIFAを脱退したその年、FIFAは会長ジュール・リメの下で大きく舵を切ります。

  FIFAはそれまで、IOC国際オリンピック委員会と軌を一にして、フットボールの国際試合に於けるアマチュアリズム尊守を掲げ、結果英国4協会のFIFA脱退を招く事態となりました。 しかしフットボールに関してはイングランドのみならず、ヨーロッパ各国にもプロチームが誕生し始め、優秀な選手はプロ転向し報酬を得る状況となっており、 最早プロ選手抜きのサッカーゲームは魅力の乏しいものとなっていました。


開催地ウルグアイのモンテビデオに船で到着したFIFA一行
 1928年5月、オリンピック・アムステル大会の準備の山場も越えたFIFA総会(アムステルダム)で、会長ジュール・リメは「IOC」のアマチュアリズムに対する意見の違いを明確にする必要が有ると主張。 「真の世界の王者を決定する大会を開こう」と演説しまし。こうしてオリンピックとは異質のスポーツ国際競技会「FIFA World Cup」が始まることになりました。

1929年、バルセロナのFIFA総会で開催国をウルグアイ(1924年、1928年オリンピック・フットボール競技の優勝国)と決定して翌1930年、第一回 World Cupが13ヶ国の参加で開催されました。

 時、恰も1929年10月の株価暴落から始まった世界恐慌の真っ只中でした。開催地が南米とのことで船での長旅となるため、ヨーロッパ各国は出場を辞退しましたが、 ベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの4カ国が参加を承諾し、南米7ヶ国、北米2ヶ国を加えた13ヶ国によって、World Cupただ一度の予選無しの本大会だけの開催となりました。
 決勝はウルグアイがアルゼンチンを4-2で破り、栄えある第1回の優勝国となりました。

ホストのウルグアイサッカー協会は FA へ参加の招待状を送りましたが、FAはこれに何等の反応も示しませんでした。



世界大戦を挟んで

  様々な困難を乗り越えスタートを切ったWord cupでしたが1934年第2回イタリア大会、1938年第3回フランス大会は順次開催されましたが、 1939年ヨーロッパに端を発した第二次世界大戦のため、1942年開催予定のドイツ大会は中止され、 1950年に開催される第4回ブラジル大会まで、12年の時を必要としました。

  この第4回大会は'46年に英国4協会がFIFAに復帰したことで、フットボールの母国イングランドのWord cup初出場の話題も手伝い、 世界の復興のシンボルとして爆発的な盛り上がりを見せました。

 世界一のフットボール熱狂国を自負するブラジルでは、建国100年の節目に開催国となり、当時の首都リオデジャネイロに 収容人員20万人の世界最大のスタジアム“マラカナン”が建設され、予選参加33ヶ国、本大会出場13ヶ国で行われました。 国民の熱い期待を背負ったブラジルでしたが、決勝戦は1-2でウルグアイに敗れます。

 ウルグアイは第1回大会以来二度目の優勝となりました。  ウルグアイに逆転負けで優勝を逃した開催国のブラジルは、この敗戦のショックを払拭するため、それまでの白いユニフォームをカナリア色に変えたと謂われています。

 自他共に「世界最強」と注目を集めたイングランドでしたが、20世紀前半期、海の向こうに背を向け通したイングランドにとってこの期間の空白は、如何ともしがたいものでした。 予選を免除される形で本大会に臨んだイングランドは、一次リーグで対アメリカに、まさかの 0-1 完封負けを喫すると、続くスペインにも 0-1 で敗れ1次リーグで姿を消してしまいました。
結果、イングランドが世界のフットボールの進歩から、大きく取り残されている現状が明るみとなりました。

漸く世界に復帰したイングランドの50年代は、惨憺たる敗戦を続けます。
'53年対ハンガリー戦 3-6
'54年対ハンガリー戦 1-7
'54年 第5回WorldCupスイス大会 決勝トーナメント緒戦でウルグアイに敗れベスト8止まり。
'58年 第6回WorldCupスウェーデン大会 一次リーグ敗退。

  その後、イングランド・ナショナルチームは戦術の強化を図り、自国開催となった1966年第8回イングランド大会決勝で、西ドイツを延長戦の末 4-2 で退け、 ようやくフットボール発祥の地としての面目を施しました。しかし、毎回優勝候補に挙げられながらも、1990年イタリア大会の4位が最高成績であり、ナショナルチームの もう一つの主要大会のUEFA欧州選手権では、未だ優勝が無い状況です。



オリンピックとFootball


1908年のオリンピック金メダルを獲得したイングランド代表チーム
 近代オリンピックは、フランス人ピエール・ド・クーベルタン男爵が提唱し、 1894年国際オリンピック委員会(IOC)が組織され、1896年アテネで第一回オリンピック大会が開催されました。 フットボールは、1900年パリ大会、1904年セントルイス大会のオリンピックでは、デモンストレーション競技として開催され、 1908年ロンドン大会より、正式種目として実施されるようになりました。

  ロンドン大会には8チーム(2つのフランスチームを含む)が参加。 決勝はイングランド選抜アマチュアチーム「Great Britain (グレートブリテン)」 がデンマーク代表を2-0で下し金メダルを獲得しました。
イングランド代表は次の1912年ストックホルム大会でも優勝し連覇を果たしました。

 しかしその後、FAとFIFAとの確執もあり、イングランドはオリンピックには参加してもサッカー競技には代表を送らない事態が続きましたが、 漸く1936年ベルリン大会には、久々にイングランド選抜チームのGreat Britainが参加しました。日本のサッカー代表初参加となったこの大会でしたが、イングランドは準決勝でポーランド戦に4-5で敗れます。

 第二次世界大戦での中断を挟んで、1948年のオリンピックは地元ロンドンが開催地となったため、英国4協会は最初で最後の混成チームを結成し大会に臨みました。
しかし、準決勝でユーゴスラビアに1-3、3位決定戦でもデンマークに3-5でそれぞれ敗れ、メダル獲得は果たせませんでした。



2012年ロンドン大会

 イングランドはその後もGreat Britainの名称でオリンピックサッカー競技に参加しましたが、1960年ローマ大会を最後に、 '64年東京大会から'08年北京大会まで、サッカー競技への参加を見送っています。
 現在はオリンピック欧州予選を兼ねるUEFA U-21欧州選手権で英国4協会のいずれかが出場権を獲得する順位に入っても、4協会はすべて参加を辞退する 状況が続いています。

 この原因として幾つか挙げられています。

 ひとつは英国4協会は、FIFAおよびUEFAに対して夫々独立した参加資格を有していますが、IOCへの加盟はイギリス・オリンピック委員会(BOA)ひとつである点です。  つまり、ひとつの国が予選会には4つのチームで参加している状況となっており、これによる参加資格の獲得にIOCは難色を示している訳です。

 他方、オリンピックの予選会(4年に1回)にだけ、統一チーム結成をしては如何の声に4協会は、それが前例になりWold-Cupを始めとするFIFA-UEFA主催の全ての 競技会に統一チーム結成の要請を招きかねない、引いては英国4協会の統合にも話がおよぶ点を危惧するからとも謂われています。

 自国開催となる2012年のロンドン大会には、一時は久々に英国代表を結成する動きもありましたが、イングランド以外の三協会による 「混成チームは4協会の独立性を脅かす」との主張から、イングランドが単独で英国代表として出場することで4協会間の合意が成立して、 FIFAも2009年総会でこれを了承しました。
 自国開催によって予選は免除されますので、オリンピックの舞台では52年ぶりの英国代表の登場が見られます。